2012.2.22.
大阪駅で,積水ハウスさんとの共同研究の打ち合わせ等がありました。
あまり余裕のない週でもあったのですが,それでも,どこかへ出かけるなら,日頃行かない処に・・・って,新大阪駅から少し足を延ばして・・・京都府の大山崎町!です。
JR東海道本線の「山崎」駅で降車しました。
  
確かに,着いてみて認識しましたが「山崎の合戦」の舞台ですよね!
    
駅の向かい側には「妙喜庵」さん・・・1ヶ月前には拝観予約が要るとのことでした。
 
で,事前に地図を繰っていたら,いくつかお寺さんがあるので,どこかへ行こう・・・って,ちょと遠目の山崎聖天(観音寺)さんへ向かうことにしました。

途中に,蛇姫池・・
【桜や睡蓮等が美しい花を咲かせている池があります。この池は昔はある農家の灌漑用のため池でした。幕末かそれ以前かよく分からないのですが、若い娘さんがこの池に落ちて亡くなりました。いじめなのか、失恋なのか原因は不明なのですが、それから近在では不幸な事件が続きました。不思議に思って占い師にみてもらうと、亡くなった娘が蛇になっているとでました。そこで池のほとりに祠を建てて娘の霊をおまつりしたところ、不幸は止んだとのことです。こうした悲しい伝説があり、誰がつけたかこの池は蛇姫池と呼ばれています。今も池の端に小さな祠があります。又、禁門の変の後、JR踏切付近で、真木和泉守とそれを追ってきた会津藩等との間で戦いがあって、多くの兵士が負傷しました。大きな怪我をすると水を飲みたくなり、飲むと死ぬそうですが、負傷した兵士が蛇姫池で沢山死んだそうです。】ということです・・・っていうか,そういう名称ですよね,絶対,何かの秘話・悲話が潜んでいるような・・・。
少し進むと・・・こんな案内が---淡路島は今でも瓦は名産のようですが,こんな処にも・・・・。
 
さて,山崎聖天・・・観音寺へ向かいます。
麓に稲荷神社があって・・・で,山門というか,勝手口的なのですが,急な石段があったので,そこから入山しました・・・立派な山門は,帰路でくぐりました。
急な石段を昇ると・広い境内と立派な灯籠が目に入りました。
山裾に拡がる落ち着いた寺院です。
    
灯籠は1690年頃だそうですね。
山門も見えていました。
英語のHAIKUのようです。
【山崎聖天(やまざきしょうてん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある真言宗系単立の寺院。正式の寺号は観音寺。山号は妙音山。「山崎聖天」、「山崎の聖天さん」と通称され、信仰を集めている。】だそうです。
【寺伝では昌泰2年(899年)に寛平法皇(宇多天皇)により創建されたというが、その後衰退。江戸時代初期に摂津勝尾寺の僧・木食以空によって再興された。歓喜天(聖天)を鎮守として祀り、特に商人から信仰された。しかし、禁門の変に巻き込まれ、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失した。2006年現在ある建物は明治時代に再建されたものである。】とのことですね。
そして,蠟梅も花を咲かせています。
この時期には,どこでも見かけますね!
【聖天堂は天皇の命令により神社造で、お寺でありながら鳥居があり、一の鳥居には観音寺、二の鳥居には聖天宮の扁額が掛かっている。】です。
殆ど,訪れる方も居ず,ひっそりとした佇まいでした。
    
白壁作りの蔵もありますね。
さて,お参りも済ませて,山門の方から戻りましょう!
石垣も荘厳な感じです。
不動明王もしっかりと,屹立しています。
    
確かに鳥居があって・・・・第一の鳥居は,JR東海道本線をくぐった彼方にありました。
    
さて,戻りかかって・・・最初の稲荷神社を訪れてなかったので,再度,向かいました。
で,そこから,もう一つ,寺院を訪れようかって思っていたのですが,「天王山・登山口」で,神社もあるとのことで・・・ついつい(スーツに革靴なのに)・・・登ってしまいました。
観音寺-山崎聖天さんも,相当登った上ですよね。
これが,また,相当急な登山道でした。後で地図でも確認しましたが,この最初の登り口の辺りは,等高線が狭い,狭い!
そして,そうです・・・山崎の合戦です。
【天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。】ですよ!
そうです,川崎医大は,丁度,秀吉が水攻めをしていた高松城の近く・・・新幹線で,山崎まで秀吉軍の行程を辿ったってことですよね!
酒解神社が,山頂付近にありました。
【自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。通称酒解神社(さかとけじんじゃ、さかときじんじゃ)。 天王山の頂上近くに鎮座する。式内社(名神大)で、旧社格は郷社。大山祇神を主祭神とし、素盞嗚尊を相殿に祀る。元々の祭神は山崎神・酒解神で、出自は不明であるが橘氏の先祖神であると言われている。素盞嗚尊は、旧天神八王子社の祭神・牛頭天王を、神仏分離にともない改めたものである。創建の由緒は不詳であるが、養老元年(717年)建立の棟札があることから奈良時代の創建とみられている。旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、官幣名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預ると記されている。その後、自玉手祭來酒解神社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていた。現在の自玉手祭来酒解神社は、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」であった。天王山は元は山崎山と呼んでいたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになった。明治10年6月、山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称した。現在の祭神・大山祇神はそのときに定められたものである。神輿庫は国の重要文化財に指定されている。】です。
確かに,神輿個は,高床っていうか,そんな感じで,国の重文なんですね。
この・・・顕微鏡みたいなのは? どなたかお教えください。
 
山頂(海抜270m)までもう少しだったのですが,ちょっと時間が気になって,また,次の機会にってしました。多分,200mくらいの距離で,地図で見るとそれほど急な坂ではなかったって思うのですが・・・。
それとは別に,維新の十七烈士の墓がありました。
【幕末、王政復古の運動を推進した長州藩が、文久3年(1863)8月18日の政変のため、三条実美以下七卿と共に京都を脱出し、しばらく本国に退いた。このとき筑後水天宮神官真木和泉守始め尊皇攘夷の志士たちは、長州藩の京都回復運動に同調し、清側義軍を編成して元治元年(1864)夏、長州藩兵と共に上京し、ここ山崎に布陣した。その強硬な上京軍に対し、幕府側はついにこれを追討することを決したが、先に上京軍は伏見・天竜寺及び山崎の三方から進撃を開始した。かくて御所の幕府軍との間に激しい戦いが展開されたが、上京軍は蛤御門・堺町御門において敗れ、退却を余儀なくされた。この山崎に退いて長州藩主力兵の国元引き揚げを見送った真木以下十七名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた。その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺等の社寺や、民家二百余戸を焼失したが、やがて烈士たちの念願が成って明治維新を迎えるに至った。かくして、十七烈士は現位置に改葬され、永遠の眠りについたのである。今日、その志を忍び人々の手によって毎年10月21日、墓前祭が挙行されている。】です。

降りてきました。もう一度,山崎の戦いの場を見降ろす展望台から,眺めてみましょう!
旗を建てた松もあります。
    
さて,麓に降りてきました。会合の時間が近いので,また,山崎駅から戻りましょう!
  
関西空港特急はるか,普通列車,そして,智頭急行はくと が走っていました。
さて・・・大阪駅・・・RENEWAL後二回目です。
なかなか先鋭なデザインです。
時空の広場の金時計・銀時計が待ち合わせに最適!